2014年6月2日月曜日

研究者としての適性

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アカデミアで研究を継続しているポスドクって結構高学歴なひとがごろごろいます。
いわゆる受験秀才みたいなひとたちです。
でも、そういった一般的な優秀さはアカデミアでの成功と結びつきません。

実際にアカデミアで成功する人は"下克上を生き残る戦国武将" or ”金儲けの達人"といった過酷な競争を生き残れる能力者です。
つまり、どこに研究の種があり、どのタイミングで飛びつくかを虎視眈々と狙っている感じ。
抜け目なさとかクレバーといった言葉が当てはまるだろうか。
ある意味、”現金”なひとである必要があります。
そうでなければ現代のアカデミアで生き残ることは難しい。
これはアーティスティックな能力で、天賦の才みたいな部分が大きいかもしれません。

この才能には学歴はほとんど関係ありません。
例えば、成功した起業家に学歴を問うのはナンセンスなのと同じです。

つまり、当たり前ですが、大学院進学ということは研究能力とは本来なんの関係もないわけです。

ですから、受験秀才のような人たちはこの壁にぶち当たるわけです。受験秀才は解がある問題を解くのは得意ですが、問いを発する経験がありません。良い問いを嗅ぎ分ける能力の問題です。本能型の人間でなければなりません。

やはり天性の向き不向きがあるわけです。

誰もがアカデミアで成功しなければならないわけはなく。
単に向いているかどうかです。

受験秀才は大企業のような組織ではそつなく成功できるでしょう。

大企業というのは、もともと天才的な起業家が起業したもので、従業員にはこの能力は必要ないわけです。
ましてや、現在の大企業にいたっては、短期的には過去の巨大な蓄積資本を取り崩すことで生き延びていくこともできます。
こういう大企業で求められる能力は物事をきちっとやるとかそういうことですね(受験秀才向き)。

ただ、"学問"="勉強がよくできること"という認識を持っていると痛い目を見る訳です。


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